【エール】タモリの無名時代と早稲田「紺碧の空」の意外な接点 [征夷大将軍★]

1 :征夷大将軍 ★:2020/08/10(月) 07:46:53 ID:CAP_USER9.net
(略)
■応援団長・高山三夫の熱い思い
応援歌の歌詞公募での選者のひとり、作詞家で早大仏文科教授だった西条八十は、住治男の書いた「紺碧の空」を「ほとんど訂正するところがない素晴らしい歌詞だ」と高く評価しつつも、「覇者、覇者、早稲田」の箇所は曲をつけるのが難しいだろうから、相当の謝礼金を積んで、山田耕筰や中山晋平といった大家に依頼すべきだと提言したという。

だが、西条のこの言葉に応援部の面々はカチンときたらしい。高山三夫という学生はカッとなって「早稲田に生きる者が金銭的に図るとは何事ですか」と一喝したという(『鐘よ鳴り響け』)。
この高山について、古関の自伝などでは応援団の「副団長」と書かれているが、『行動・熱血の63年 高山三夫のプロフィール』(私家版)所収の年譜によれば、1931年当時、早大商学部の3年生だった彼は応援団長に就任していた。高山は1908年生まれで、古関よりも1つ上ということになる。
『エール』に登場する応援団長の田中は訛りから察するに九州出身のようだが、高山も福岡出身で、隣県の大分・日田中学(現・日田高校)を卒業後、上京すると第二早稲田高等学院を経て早大に入学している。

■高山とタモリの意外な関係
現実の高山は1932年に大学を卒業すると、帰郷して福岡日日新聞社(戦時中に九州日報社と合併して西日本新聞社となる)に入社し、戦後は全九州一周各県対抗自転車競走大会や西日本巡回移動大動物園など大規模な事業に多数かかわった。1964年に定年退職後は西日本新聞社の嘱託となり、特派員としてたびたび世界各地を回ってもいる。高山は新聞社勤務のかたわら、他人への世話も惜しまなかった。毎朝出勤前には地元の人たちの“陳情”に応じていたほか、元横綱の双葉山、作曲家の中村八大や歌手の村田英雄といった九州にゆかりのある人々を支援するなど、まさしく地元の名士ともいうべき存在だった。
そんな彼と深いかかわりを持った人物のなかには、無名時代のタモリがいる。その出会いはつまびらかではないが、高山が早大校友会福岡支部の幹事長などを務めていたことから察するに、おそらくはその関係で知り合ったのではないだろうか。

タモリは一浪して1965年に早大に入学するも、モダンジャズ研究会の活動に熱中するあまり除籍となる。しばらくして郷里の福岡に戻ると、1970年に朝日生命に入社。翌1971年秋には、26歳にして会社の同僚だった2歳上の女性と結婚、このとき媒酌人を務めたのが高山だった。だが、同年11月に高山は62歳で亡くなっている。

■タモリの力を見抜いた高山の慧眼
翌1972年、タモリは、高山が中学時代をすごした日田市のボウリング場に転職した。このボウリング場はもともと日田観光開発という会社が経営していたもので、同社が雅叙園観光という当時全国展開していた総合レジャー・エンターテインメント企業に吸収合併されるにあたり、リニューアルされることになった。
このとき雅叙園観光社長の松尾國三に、高山は以前より何かにつけて世話をしていた縁から、ボウリング場の経営を任せられる人物はいないかと相談され、推薦したのがタモリだったという。

拙著『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)にも書いたように、ボウリング場でタモリは支配人にまで出世し、12人の従業員の先頭に立って八面六臂の働きを見せ、収益もしっかりあげていたという。
そして1年半ほどして再び福岡に呼び戻され、高山の長男・博光(現・福岡市議会議員)の開業したフルーツパーラーのバーテンダーに転身した。
このころにはタモリは、山下洋輔たちジャズミュージシャンが福岡を公演に訪れるたび、一緒に遊ぶ仲となっており、しきりに上京を勧められていた。彼がついに決意して東京に旅立ったのは、バーテンダーになった翌年、1975年のことである。

■タモリも書いた早大応援歌
なお、早大では戦後も応援歌が、永六輔や青島幸男といった名だたるOBの作詞によりいくつもつくられてきた。
タモリも芸能界にデビュー後、1980年に依頼を受けて「ザ・チャンス」という28番目の応援歌を書いた(作曲は早大ハイ・ソサエティ・オーケストラ1期生の岸田哲)。
彼はこのとき、《『紺碧の空』ができた時の応援団長だった高山三夫さんは、個人的に大変お世話になった方なので、私に依頼がきた時には、なにか不思議な因縁の様なものを感じた次第です》という言葉を残している(『サンデー毎日』1980年11月16日号)。

いまにして思えば、大学をやめて、いわば都落ちしてきた森田一義という青年に見どころを感じ、大きな仕事を任せた高山三夫は慧眼というしかない。

文字数制限のために該当部のみ。全文はリンク先で。現代新書、ヘッドライントゥディ 2020.8.10
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74753

18 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 08:29:18 ID:LczwoP870.net

二部は早稲田じゃない!

57 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 17:24:03 ID:72FakY8p0.net

>>18
二部こそ、ある意味早稲田だろ

66 :名無しさん@恐縮です:2020/08/12(水) 14:57:06 ID:24kd5kO00.net

>>57
俺もそう思う
早稲田の夜間が一番早稲田っぽい
演劇とか

71 :名無しさん@恐縮です:2020/08/12(水) 17:39:45.36 ID:d8QeVMFo0.net

>>18
社学は2部じゃねぇぇぇぇぇ!

13 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 08:03:48 ID:rmedAof+0.net

>>2

怖すぎる眼帯
からのテレビ向けのための柔和化


 ↓

 ↓
cdn.asagei.com/asagei/uploads/2013/11/20131128d.jpg
 ↓
kurumefan.com/wp-content/uploads/2018/09/180927-0001.jpg

60 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 18:51:37.99 ID:Fzup3N970.net

>>13
それ一人タモリじゃないのが混じってるという噂が

63 :名無しさん@恐縮です:2020/08/11(火) 12:37:13.52 ID:/SGgHbMN0.net

>>60
2枚めは岸田森だろw

14 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 08:08:04.02 ID:qOPDbSjr0.net

タモリが常識ある人なのは、社会人生活をちゃんと送ってたからなんだね

19 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 08:43:06.12 ID:vXs2EPw30.net

>>14
ちゃんと社会人してたら赤塚なんかに拾われないだろ

29 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 09:32:25.23 ID:V945D6fg0.net

タモリは貧乏な家庭で育って、幼くして働いていたときに眼病を患ったけど医者にもかかることができずに片目を失った。
それでもくじけることなく明るさを失わず生きて、人々を笑いを届け皆が幸せになってほしいとの一心でお笑いの世界に入った。
なんて話を信じて応援していたのに後年みんな嘘だと知って悲しかった。

36 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 10:21:08.74 ID:V41n5fZ50.net

>>29
貧乏どころか裕福な家庭だったんだけど。
わりとお坊ちゃまだよ

50 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 14:28:03.52 ID:N94gR9Dr0.net

デビュー当時から早稲田中退のインテリアってふれ込みだったよな
当時の二部なんて無試験も同然だろ

59 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 18:08:49 ID:fSb3lODG0.net

>>50
古くて情報が少ないけど、1960年代後半の古い受験雑誌の難易度ランクだと
立教大社会学部とか立命館大文学部とかと同じだからさすがにそれはないかと・・・
社学はその下だし。

20年前だったら社学も二文も代ゼミや河合で偏差値60台だから難しいのは間違いないけど。

53 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 15:13:21.15 ID:uxByUkFN0.net

今のタモリ倶楽部つまらない
あんな毒にも薬にもならない内容ならわざわざ深夜でやる必要ない気がする

56 :名無しさん@恐縮です:2020/08/10(月) 16:34:18 ID:jbPZltg60.net

>>53
ではどういう内容なら面白いと感じるのか。

1 :征夷大将軍 ★:2020/08/10(月) 07:46:53 ID:CAP_USER9.net

(略)
■応援団長・高山三夫の熱い思い
応援歌の歌詞公募での選者のひとり、作詞家で早大仏文科教授だった西条八十は、住治男の書いた「紺碧の空」を「ほとんど訂正するところがない素晴らしい歌詞だ」と高く評価しつつも、「覇者、覇者、早稲田」の箇所は曲をつけるのが難しいだろうから、相当の謝礼金を積んで、山田耕筰や中山晋平といった大家に依頼すべきだと提言したという。

だが、西条のこの言葉に応援部の面々はカチンときたらしい。高山三夫という学生はカッとなって「早稲田に生きる者が金銭的に図るとは何事ですか」と一喝したという(『鐘よ鳴り響け』)。
この高山について、古関の自伝などでは応援団の「副団長」と書かれているが、『行動・熱血の63年 高山三夫のプロフィール』(私家版)所収の年譜によれば、1931年当時、早大商学部の3年生だった彼は応援団長に就任していた。高山は1908年生まれで、古関よりも1つ上ということになる。
『エール』に登場する応援団長の田中は訛りから察するに九州出身のようだが、高山も福岡出身で、隣県の大分・日田中学(現・日田高校)を卒業後、上京すると第二早稲田高等学院を経て早大に入学している。

■高山とタモリの意外な関係
現実の高山は1932年に大学を卒業すると、帰郷して福岡日日新聞社(戦時中に九州日報社と合併して西日本新聞社となる)に入社し、戦後は全九州一周各県対抗自転車競走大会や西日本巡回移動大動物園など大規模な事業に多数かかわった。1964年に定年退職後は西日本新聞社の嘱託となり、特派員としてたびたび世界各地を回ってもいる。高山は新聞社勤務のかたわら、他人への世話も惜しまなかった。毎朝出勤前には地元の人たちの“陳情”に応じていたほか、元横綱の双葉山、作曲家の中村八大や歌手の村田英雄といった九州にゆかりのある人々を支援するなど、まさしく地元の名士ともいうべき存在だった。
そんな彼と深いかかわりを持った人物のなかには、無名時代のタモリがいる。その出会いはつまびらかではないが、高山が早大校友会福岡支部の幹事長などを務めていたことから察するに、おそらくはその関係で知り合ったのではないだろうか。

タモリは一浪して1965年に早大に入学するも、モダンジャズ研究会の活動に熱中するあまり除籍となる。しばらくして郷里の福岡に戻ると、1970年に朝日生命に入社。翌1971年秋には、26歳にして会社の同僚だった2歳上の女性と結婚、このとき媒酌人を務めたのが高山だった。だが、同年11月に高山は62歳で亡くなっている。

■タモリの力を見抜いた高山の慧眼
翌1972年、タモリは、高山が中学時代をすごした日田市のボウリング場に転職した。このボウリング場はもともと日田観光開発という会社が経営していたもので、同社が雅叙園観光という当時全国展開していた総合レジャー・エンターテインメント企業に吸収合併されるにあたり、リニューアルされることになった。
このとき雅叙園観光社長の松尾國三に、高山は以前より何かにつけて世話をしていた縁から、ボウリング場の経営を任せられる人物はいないかと相談され、推薦したのがタモリだったという。

拙著『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)にも書いたように、ボウリング場でタモリは支配人にまで出世し、12人の従業員の先頭に立って八面六臂の働きを見せ、収益もしっかりあげていたという。
そして1年半ほどして再び福岡に呼び戻され、高山の長男・博光(現・福岡市議会議員)の開業したフルーツパーラーのバーテンダーに転身した。
このころにはタモリは、山下洋輔たちジャズミュージシャンが福岡を公演に訪れるたび、一緒に遊ぶ仲となっており、しきりに上京を勧められていた。彼がついに決意して東京に旅立ったのは、バーテンダーになった翌年、1975年のことである。

■タモリも書いた早大応援歌
なお、早大では戦後も応援歌が、永六輔や青島幸男といった名だたるOBの作詞によりいくつもつくられてきた。
タモリも芸能界にデビュー後、1980年に依頼を受けて「ザ・チャンス」という28番目の応援歌を書いた(作曲は早大ハイ・ソサエティ・オーケストラ1期生の岸田哲)。
彼はこのとき、《『紺碧の空』ができた時の応援団長だった高山三夫さんは、個人的に大変お世話になった方なので、私に依頼がきた時には、なにか不思議な因縁の様なものを感じた次第です》という言葉を残している(『サンデー毎日』1980年11月16日号)。

いまにして思えば、大学をやめて、いわば都落ちしてきた森田一義という青年に見どころを感じ、大きな仕事を任せた高山三夫は慧眼というしかない。

文字数制限のために該当部のみ。全文はリンク先で。現代新書、ヘッドライントゥディ 2020.8.10
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74753

68 :名無しさん@恐縮です:2020/08/12(水) 17:06:01 ID:dAj83W+T0.net

タモリがかけだしのころに住んでいたマンションは、に古関裕而の家のすぐそばだった

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